わたしの沖縄物語

がちまやぁの店主松本が沖縄への思いを
自由にスクランブルに綴った<わたしの沖縄物語>。
ブログで、時折連載しています

06/06/30>第17回 『言ってごらん、またもや』
 

 先週は、那覇与儀の飲み屋「美美」のママが言った「言ってごらん」について書きましたが、この言葉でもうひとつのシーンを思い出します。酔っぱらった客が従軍慰安婦の話をしていた時でした。
「従軍慰安婦なんて、どこの国のどの戦争にも従軍慰安婦はいて、連れ回していたさ」。
その言葉に、またもやママは、料理をしていた手を止めて、カウンター越しにその客をにらみつけました。
「え、言ってごらん。日本以外のどこの国が、従軍慰安婦を連れ回したか、どの戦争で、連れ回したか。言ってごらん」。
答えに窮して、客は黙り込んでしまいました。ラディカルという言葉はふつう急進的と訳されますが、根本的、根源的という意味もあります。ママの言葉は、いつもラディカルでした。沖縄勤務時代、わたしが会った女性は、根源的とい意味において非常にラディカルでした。あなたは、沖縄でどんな女性に出会いましたか?

06/06/23>第16回 『言ってごらん』
 

 今日は、沖縄慰霊の日。61年前のこの日に沖縄戦が終結したのではなく、沖縄守備軍の最高司令官だった牛島満中将が自決した日で、組織的な戦闘が終わった日といわれています。慰霊の日で思い出すのは、先日書いた那覇与儀の飲み屋「美美」のママの言葉です。東京帰りのウチナンチューが、泡盛を飲みながら話していました。「沖縄戦が酷かったといっても、東京でも空襲があったし、どこでも同じと東京で言われたよ」。その言葉を聴いたママは、料理をしていた手を止めてカウンター越しにキッとその話し手を見据えました。「指をね一本一本折られるようにね、沖縄は毎日毎日爆撃を受けてね、毎日毎日逃げまわったサ。大変な哀り(苦労)を味わったサ。そんなところがえっ、どこにあったね。言ってごらん」。日本で唯一地上戦があり、24万人もの人が生命を落としたという沖縄戦。もう10年以上前の飲み屋で遭遇したことですが、ママの「言ってごらん」の言葉が、いまも耳元に聞こえてきます。

06/06/2>第15回 『姉のゴーヤーチャンプルー』
 

 今回は、いまでは全国区の料理になったゴーヤーチャンプルーについての思い出です。沖縄生まれの母が作るゴーヤーチャンプルーは、ゴーヤーと豆腐だけ。まず、豆腐を焦げ目が付くほど炒め、ゴーヤーを加えて、塩味だけで調味したものでした。
 種子島に嫁いだ私の姉は、長い間福岡の病院に入院していました。投薬や放射線の治療で食欲がない時、姉から決まって「ゴーヤーチャンプルーを作ってきて」と注文されました。25年ほど前のことです。ゴーヤーチャンプルーはまだまったく市民権を持たない料理で、ゴーヤーをニガウリと言っていた頃です。姉は、ゴーヤーの苦さと塩味の豆腐で、ほんの少しだけでも食欲がでたのでしょうか。子供の頃から食べ慣れたゴーヤーチャンプルーで、わずかの間だけでも癒されたのでしょうか。
 がちまやぁのゴーヤーチャンプルーは、豆腐とゴーヤーに、ゆでた豚肉を加えて炒めたもの。ポークも他の野菜も入れません。ソーミンチャンプルー同様シンプルですが、これが一番おいしく、元気がわくゴーヤーチャンプルーだと私は信じています。




06/06/2>第14回   『美美のソーミンチャンプルー』 
 

 ソーミンチャンプルーと一口に言っても、具入りの焼きそば風のもの、プットルー状態のもの、醤油と油だけで和えたものなど、様々です。そろぞれの店にそれぞれのソーミンチャンプルーがあるだけではなく、その店のつくる人によっても十人十色というか、十人十ソーミンチャンプルーがあります。あるスナックでは、常連さんが今日は○○ちゃんのソーメンチャンプルーが食べたいといって注文するという話もききました。
 那覇の与儀に「美美(みみ)」という飲み屋がありました。この飲み屋についてはまた書きますが、ここのママは、ソーミンチャンプルーの注文があると、「いまからソーミンチャンプルーをつくるから声をかけないで」と強い口調で宣言して、作り始めます。ネギとツナだけのシンプルなソーミンチャンプルーは、一見簡単そうに見えますが、ソーメンをゆがく時間、もみ洗いするタイミング、べた付かないような炒め方など、まったく気が抜けないのです。大げさにいえば、1皿入魂というべき気迫と集中力が必要なのです。
 わたしは、多種多彩なソーミンチャンプルーを食べ比べましたが、シンプルで気合いのこもった「美美」のソーミンチャンプルーが、一番おいしいと思い、福岡でその味をいま再現しています。

 

06/06/2>第13回   『歩く人』

 沖縄勤務時代、ただ歩き続けているというホームレスにほぼ毎日のように出会いました。いつ会っても、彼は歩いているのです。正しくは、わたしが会った時にはいつも歩いていたと言うべきなのでしょうが。猫のように路地を歩くのではなく、国道58号線を歩いているのです。それも、歩道ではなく、歩道にぎりぎり近い車道を歩いているのです。顔は沖縄の太陽に焼かれ赤銅色で、膝までのズボンにぼろぼろに汚れた運動靴を履き、ただ歩いているのです。那覇でも、浦添でも見ました。意図や目的地があるのかもしれませんし、山之口獏の詩のように、「歩き、歩き疲れては空と陸の間に寝るのです」ということもあるでしょう。しかし、わたしが見る時は歩いているのです。わたしは歩く人のその不条理さに少々圧倒されていました。
 福岡に戻って10年、今年の2月沖縄を訪れた際、浦添近くの58号線で、思わず「あっ、歩いてる」と声を上げてしまいました。歩く人に出会ったのです。同じような風体ですが、髪が短く切られていました。沖縄には、彼の髪を切ってあげる人がいるのでしょう。その短い髪で、彼は歩いていました。
 沖縄に行かれた時、あなたも「歩く人」に出会うかもしれませんね。

06/05/26>第12回   『沖縄のまやぁ』

 先週は、『桜坂のマヤー』について書きましたが、がちまやぁという猫入りの店名から、沖縄で猫の写真を撮りホームページで公開しています。沖縄の猫はカメラ目線、人間を怖がりません。沖縄で猫の写真と撮るたびに、その思いを強くします。なかでも、竹富島の猫は、ポーズまで取ってくれる、ような気がします。子供がいたずらしても、ながながと伸びて昼寝をむさぼる民宿仲盛荘のニヤン次は別ですが。
 那覇の公設市場の近くに『琉夏』という泡盛の店があります。そこにいる猫は、泡盛を試飲すると言うウワサを聞き、その店に立ち寄ってみました。件の猫は、泡盛の箱の上で昼寝の真っ最中、店の方は福岡からの訪問者に気を遣って起こそうとしたものの、泡盛を舐めすぎたのか、爆睡して起きる気配もなし。ちなみに名前は「タカヤニャギ」。店長が阪神のファンでした。
 餌をくれる人の車の音を覚えているという読谷販売所のノラネコ、何度捨てても交通量の激しい国道330を超えて戻って来るという胡屋の飼い猫など、沖縄の猫はたくましく、のびのびと身勝手に生きている気がします。猫全般がそうなのかもしれませんが・・。

06/05/19>第11回  『桜坂のまやぁ』

 那覇の桜坂は、いまは再開発でずいぶん整理整頓されましたが、かつては、飲み屋がひしめく街でした。街の一角に桜坂映劇という映画館がありました。その映画館のドアの前に、ノラネコが横一列に並んでいるのを見たことがあります。映画館には、そのノラネコ軍団をまたがなけらば入られないのです。もう10年以上の前のことです。当時は、桜坂のあちこちで傍若無人のノラネコを見ることができました。
 今年の2月、のびのびと生きる沖縄の自由猫を撮って回ったものの、桜坂では残念ながら一匹の猫とも出会いませんでした。開発とともに、どこかに行ってしまったのでしょうか。したたかに生き延びていることを願うばかりです。
 がちまやぁのお客さまで、大阪から出張のたびに来店してくださる方がいました。その方は、念願の沖縄移住を敢行し、沖縄風景を自分のブログに書いています。ブログ名は、<a href="http://blog.goo.ne.jp/s_mayaa/">『桜坂のまやぁ』</a>。桜坂のまやぁは、名前だけを残すことなく、伝説になることなく、いまでも街を我が物顔で歩いて欲しいものです。猫にとって住みやすい街は、人間も住みやすいと思うのですが、いかがでしょう。

06/05/12>第10回     『名護の七曲がり』

 連休で沖縄に行かれた方もいらっしゃると思いますが、沖縄の高速道路の終点、許田ICをご存知でしょうか。許田ICを降りたあたりの集落を湖辺底と呼びます。この村で母は生まれ、マチヤグァーに下宿していた父と出会いました。近くにある小学校の教師をしていた父は、名護の病院で助産婦として働く母と会うため、宮田製作所のギアエムという最新式の自転車を月賦で購入したといいます。父は勤務後、ランプを磨き、毎日自転車で1時間かけて名護まで母に会いに行きました。
 許田から名護までは約8キロ、海洋博の国道58号線の拡張工事でいまはなくなりましたが、昭和50年以前は名護の七曲がりと呼ばれるカーブの多い急所の連続の道でした。七曲がりというのはカーブが7箇所にあるのではなく、実際には49から51のカーブがあったそうで、風光明媚ではあったものの、戦前はそれ以上に道路状況も悪かったことでしょう。いまでは道の駅や高速の入り口で渋滞していることが多い許田、名護間を走ると、S状に蛇行するような七曲がりの名残をわずかですが見ることができます。約70年前、海に張り付いたような七曲がりの道を、一人の青年が自転車のランプだけをたよりに往復していたのです。
 日本が戦争に傾斜しながらも、本格的に戦争に突入する5年ほど前のことです。父は93、母は91、いまも二人は仲むつまじく鹿児島で暮らしています。

06/05/5>第9回     『ユッカヌフィー』

昨日は5月4日でしたが、旧暦の5月4日は『ユッカヌフィー』と呼ばれる子供たちが待ちに待った日でした。『ユッカヌフィー』とは単純に「4日の日」という意味ですが、子供たちにとっては特別な日、那覇の町におもちゃの市が立つ日だったのです。この日を子供たちは指折り数えて待ち、欲しかったおもちゃを買ってもらうのを楽しみにしていました。今年94才になる私の父は、露店が軒を連ねたその日の那覇の賑わいを昨日のことのように話し、「その日は半ドンでね、学校から走って帰ってね、ラッパを買ってもらって、嬉しかったよ」と、いまでも目を輝かせます。九州国立博物館で開催中の<琉球展>でも、『ユッカヌフィー』のおもちゃが展示されていますね。
この日は、ポーポーやチンピンというクレープのようなお菓子をつくって神仏に供え、子供たちの健やかな成長を祈ったそうです。ポーポーやチンピンについては、父は小遣いをもらい露店で買うのが楽しみだっといいます。小麦粉が貴重な時代、父が食べたチンピンはとびきりおいしかったことでしょう。5月4日は、1日早いこどもの日のようですね

06/04/28>第8回     『シーミーは、どこから』

 シーミーとは、清明祭のこと。と言ってもこちらではあまりなじみがありませんが、旧暦の3月の清明節に、一族揃って墓参りをする大切な行事です。いま沖縄では各地で清明祭がたけなわです。
 父方の清明祭は、毎年4月29日に決められています。この日は、識名霊園にある墓に親族がごちそうを持って集まります。沖縄のお墓の前には会食ができるようちょっとしたスペースがありますが、これには、驚きますよね。線香をあげ、お参りし、墓前でごちそうを広げてご先祖さまと会食するわけです。法事と違って、お先祖さまとの宴ですから、お包みは紅白の水引がついた祝儀袋です。
 母方のお墓は、新しく作り直したのですが、その時、墓前の広場にはテントが立てられるよう、ポール立ても作っていました。テントがあれば強い沖縄の日差しを気にせずご先祖さまと食事ができるというわけです。
 清明祭は中国から来た行事だと思いますが、中国では墓前で会食というのはないと聞きました
ご先祖を大事にするから生まれた行事なのでしょうか、単純に宴会が好きだからでしょうか。その両方かもしれませんね

06/04/21>第7回     『踊るおじい・2』

 今回は、「踊るおじぃ」の続編です。
 琉球展にも出展される『万国津梁の鐘』、その銘文が、がちまやぁの店内にも掲げられております。この書を書いてくださったのは、わたしより40才年長の従兄弟で、門中が集まる清明祭(しーみーさいと読みます。清明祭にはついては来週書く予定です)では、背広姿のまま、祝いの曲「かぎやで風節」を突然踊り始めるような方でした。現役時代にはかなりの要職に就かれた方でしたが、居並ぶ気難しげな親族を前に、箸袋を扇子に見立てて、得意げに踊られた姿を思い出します。
 彼が念願の琉球舞踊を正式に習い始めたのは、80代後半。発表会で「浜千鳥」を踊るということで、エンドレステープに「浜千鳥」の録音を頼まれたことがあります。88才で迎えた晴れの発表会では、カツラをかぶり、真っ白に舞台化粧をし、琉球絣の着物に紫の長手巾をたらした琉装をまとい、紅一点ならぬ黒一点で、群舞の「浜千鳥」を踊られたとのこと。この話を聞いたときは、「いいなあ」と思ったのですが、家族曰く「おぞましくて」、会場で顔をあげられなかったとのこと。
 まぁ、「いばるおじぃ」ではなく、「踊るおじぃ」になるほうが、周囲も本人も平和。願わくば、「踊るおじぃ」になりたいものです。

06/04/14>第6回     『おじぃも恐るべし』 

 おばぁの次は、わたしが遭遇したおじぃの話です。今年の元日の夜、那覇の与儀にある「田舎乙女」という民謡酒場に行った時のこと。夜9時過ぎの先客は、おじぃ一人。10時に民謡ショーが始まると、おじぃはしきりに『カナョーアマカー』をリクエストします。『カナョーアマカー』は、若い男女の出会いを唄った琉球舞踊の名曲のひとつ。民謡をまず聴いて欲しい店の歌手は、「その曲は、まだ早い」と繰り返しますが、おじぃはこりずに、あきらめずにしつこく何度もリクエストします。
 おじぃのあまりの熱心なリクエストに呆れて、店の歌手はとうとう『カナョーアマカー』を弾き始めました。すると、おじぃは嬉しそうにステージ前に出て行き、踊るかと思うと、今度は「ひしゃく」と言います。『カナョーアマカー』には、ひしゃくは付き物なのです。店の奥から持ってきてもらったひしゃくを手にして、おじぃは心から満足げに自己流の『カナョーアマカー』を喜色満面で踊り始めました。
 おじぃに誘われ、わたしもいっしょに踊りましたが、おじぃは85才で、大好きな『カナョーアマカー』を踊るために、この店に初めてきたとのこと。写真はその時のもの。誰です?「踊るおじぃ2人」と言ってるのは。沖縄では、「踊るおじぃ」によく遭遇します。しみじみ踊ることが好きなんですね。
 今回は、おじぃおそるべしではなく、「おじぃ踊るべし」でした。踊りが好きなおじぃについては、また書きたいと思います。

06/04/7>第5回    『おばぁ、恐るべし』

 今回は、沖縄勤務時代、同じ会社の女子社員が目撃した話です。彼女が、近所のマチヤグァーに買い物に行った時のこと。このマチヤグァーについては、また別に書きたいと思っていますが、日用品もろもろと野菜も肉も総菜も売っている沖縄の街角にある何でも屋のこと、大抵、おばぁ一人が店を切り盛りしています。
 そのマチヤグァーに、転勤族の奥さんとおぼしき女性が、トマトを手に持って、やってきました。
 「おばさん、ここで買ったトマト、腐ってましたよ。こんなの売ったらダメじゃないですか、交換してくださいね」
 おばぁは、驚いて奥さんの顔を見上げました。
 「アヤー、なんで自分で選ぶのに、腐ったの選んだかネー」
 その言葉に、奥さんは絶句。唖然として、マチヤグァーを後にしました。彼女が去った後、おばぁが放った一言。
 「根性の悪い人は、悪いものを選ぶサー」

06/03/31>第4回    『沖縄には花粉症は、ない』

 古謝美佐子さんも、「沖縄には花粉症はないサー」と言っていましたが、わたしの体験上、やはり「ない」、「発症しない」といえますね。わたしは、クシャミが出る、鼻水が止まらない、目が充血する、頭が重いという幅広いレパートリーを持つ猛烈な花粉症患者なのですが、沖縄赴任時代の4年間は、花粉症とは無縁でした。しかし、福岡に戻って2〜3日すると、クシャミが出始め、頭がボーとして集中力が低下し、帰福後10年目のこの春も悩ましい季節に頭を抱えています。
 アレルギー調査によると、「スギ花粉症の有症率」の1位は、山梨県の29.9%に対して沖縄県は最下位の0.6%、「スギ以外の花粉症」では、岐阜県がトップで沖縄県は0.0%というデータもあり、数字でも「花粉症はない」ということを証明しています。関東に住む知人から、「花粉症の頃は、いつもニュージランドに逃げるのだが、沖縄がどうか」という問い合わせがありましたが、この頃沖縄に避難する人も多いと聞ました。
  スタッフの古堅クンは、沖縄は与那原町生まれ。18才まで花粉と縁がなかったものの今は花粉症に悩まされ、「ファンシー」という名の泡盛が効くと言うことで、飲んでみたものの効果なし。目がかゆくてかゆくて目の回りをこすったため、目の回りを真っ赤に腫らしてグルクンを揚げています。今回は、「私の沖縄物語」ならぬ、「花粉症物語」になってしました。福岡は花粉と花見の季節、沖縄では、「若夏(うりずん)」と呼ばれる一年中で一番美しい季節が始まります。

06/03/24>第3回    『豚小屋は臭い』

 今回も沖縄でのサラリーマン時代の話です。那覇の与儀公園近くのスナックで飲んでいた時のこと。客とホステスさんの話が聞こえてきました。客は、本土から赴任してきたサラリーマンで、沖縄に視察に来た上司の接待を終え、その疲れを癒しに店に来た様子。テレビでは大河ドラマで『琉球の風』が放映され、読谷村には<テーマパーク琉球の風>ができた直後の頃でした。
 「上司を<琉球の風>に案内したら、豚小屋が近くにあって、
  臭いんだよな。テーマパークのそばに、豚小屋を造ったらいかんよ」
 「豚小屋は、前からあったサー」
 「違うところに造ればいいだろ」
 「豚小屋は、前からあったと言ってるサー」
 「臭くてかなわんよ」
 「豚小屋は臭いサー」
 「臭いと恥ずかしいだろ」
 「豚小屋は臭くて当たり前サー」
永遠に噛み合わない二人の会話は、席を立っていったホステスさんのこの言葉で、終結しました。
 「あんた、嫌いサー」

06/03/17>第2回  『イッちゃんと会ったことがありますか』
 

 「イッちゃん」と初めて会ったというか、見たのは、今はもうない那覇国際通りのミニホール『ジャンジャン』でした。もう13年以上前ですね。その頃、わたしはサラリーマン、単身赴任の気軽さでライブハウスに通い詰めていましたが、新良幸人や嘉手苅林昌が出演していた『ジャンジャン』の一番前の席に、「イッちゃん」はいつも座っていました。野球帽にポロシャツ、サンダル履きで少年のような小柄な体つき、年齢不詳の彼は、調子はずれの手拍子を打つ、ちょっと気になる存在でした。琉球舞踊を見に沖縄県立劇場に行った時にも、那覇のリュウボウホールでも会い、沖縄の知人に話すと、彼は「イツちゃん」と呼ばれ、知的障害を持っているとのことでした。
  私の師である大工哲弘氏は、彼のことをよく知っていました。
 「イッちゃんは、沖縄の音楽ホールや劇場はフリーパスなんだよ。彼が来ると「カリーがつく」、つまり縁起がいいということでミュージシャンが喜ぶんだよね。ただし途中で帰ってしまうこともあってね、それは、ライブがおもしろくないからなんだよ」
 2004年、福岡からリュウボウホールの新良幸人ライブに行った時も、暗闇からちょっとずれた手拍子が聞こえてきました。あの音で、「今日もイッちゃんが来てるんだ」と分かります。昨年の夏には、那覇久茂地の交差点で、野球帽のイッちゃんに会いました。今夜もどこかの音楽ホールで、イッちゃんは手拍子を打っているかもしれませんね。

06/03/10>第1回    『沖縄の神様』
 

 がちまやぁを開店して、3年目の秋の初めでした。2001年頃ですね。
閉店間際にお客さまがいらっしゃいました。「11時で閉店なのですが」というスタッフの声の後に、「私に11時で帰れと言うの」という声が聞こえます。出て行きますと、そこには小柄で恰幅のいい、いかにもウチナンチューとおぼしき男性。閉店までどうぞと、フロアに招き入れると、沖縄から出張で福岡に来て、会議に出ていたと泡盛を飲みながら、語り始めました。
「福岡での会議は疲れるでしょう」という私の言葉に、その方は、「そう。疲れるねえ。こっちの人はなんでも時間、時間さー」と応えられ、「納品も何日何時何分まで。時間通りには、人はなんにもできないのにさー、なんでも時間時間、時計に支配されているんだねえー」。そしてゆっくりと泡盛を口に運び、「時計じゃなくて、人間の体の中に流れている時間があるさー、それを忘れていいのー。無視していいのー」と話されたのです。泡盛を二杯ほど飲んで、年内には福岡に来るからと、また来店するよと言われて帰っていかれました。
 その方の話をすると、妻は「沖縄の神様が来たんだ」と言います。「沖縄の神様」は、それから、来ません。それっきり来ません。がちまやぁは夜11時までですが、また来てください。